天声手帳

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古代史研究の70年を総括

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7月30日に東京の紀伊國屋サザンシアター朝日新聞と角川文化振興財団の主催による、日本の第一線の古代史研究家10名の古代シンポジウムが開催され、戦後古代史の総括が行われた。シンポジウムには応募しなかったが、本日朝日新聞にその内容が掲載されたので、振り返ってみたい。

 

www.asahi.comhttp://www.kadokawa-zaidan.or.jp/news/2016/06/

 

 

纏向学研センターの寺沢所長は弥生時代にすでに律令期「郷」のレベルにあたる部族的国家の「クニ」が存在した主張した。郷とは701年の大宝律令で定められた国郡里制で一里は50戸、715年に里が郷になった。二十里千戸で一郡になり、郡がまとまって国(地方)になる。国司や郡司などの長官、諸国を結ぶ道路、国単位の軍隊などが編成されている。この形の原型がすでに弥生時代邪馬台国に見られるという指摘である。

国郡里制 - Wikipedia

 


ここまではっきりではないが近いものは確かに魏志倭人伝の書かれているので、以前から想像はされていたが纏向遺跡の発掘の結果から話す寺沢所長の発言はこれを確かなものにした。

お知らせ - 角川文化振興財団

 

福岡大の武末教授は北部九州に海村が存在し、他の集落と連携をとりながら、対外交易を行っていたと話した。鉄素材や銭の出土などから、これを裏付けている。対外交易の相手は中国文化の窓口となった、遼東半島の「公孫氏」であると結論づけたのは東洋大の森教授である。

 

近つ飛鳥博物館の白石館長は奈良県箸墓古墳について、「突然出現し、日本列島各地の墳墓の要素が取り込まれている。それは箸墓をつくった初期の王権が連合国家であることを示している」と指摘した。箸墓古墳日本書紀では崇神紀にヤマトトトヒモモソヒメの墓とされている。連合国家となると邪馬台国に重なるので、卑弥呼またはトヨの墓との推測が本物らしくなってくる。

 

私が邪馬台国で注目しているのは、どうやって倭国乱の戦争状態をおさめたのか、またどうやって約60年後の卑弥呼の老年期まで、平和な状態を続けられたのかという点である。連合国家だったことは間違いないし、九州に一大卒をおいて、貿易の監視をしているので、連合国家間で話し合いが持たれたことは確かである。すでに稲作が発達し貧富の差や階級の差まで生まれているので、水権の問題や災害、疫病、食料の分配など話し合うべきことはたくさんあった。

 

輸入で入ってくる鉄の規制、諸国間の文化や物資の交流、都市の建設、古墳の形の統一など、この時代に実施していたことはすべて現代につながる。日本のクニの形はこの時代に形作られたと思っているので、古代の弥生時代が解明されていくのは、私の大きな楽しみのひとつになっている。