天声手帳

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森本六爾とその弟子の文学

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桶川の埼玉文学館に「考古学と文学」の記念講演会「森本六爾とその弟子の文学」を聞きに行った。森本六爾は昭和の始めにアマチュア考古学者として「弥生時代に稲あり」を唱えた人で、考古学を単なる知識ではなく、その時代の人々の気持ちまで理解して考えるべきと弟子たちに教えた。

 

32歳と若くして亡くなったため、その功績は弟子たちに引き継がれ、「畿内弥生式土器の編年」を小林行雄が、評伝「二粒の籾」を藤森栄一が書いている。松本清張の「断碑」も森本六爾をモデルとしているが、あまり評判がよくない。パリ留学のときに林芙美子と恋に落ちたが、日本には妻もいるため、すぐ別れたという。川端康成の「伊豆の踊子」やフランスの作家ポール・ヴァレリーを愛読し、妻にも読み聞かせた。

 

http://www.interq.or.jp/gold/waki/index2/index2.html

 

企画展「考古学と文学」にはピッタリの人で、参加者は文学ファンが7~8割、考古学ファンが2~3割と説明があった。私は少数派の考古学ファンの方である。亡くなって1年足らずのうちに奈良で唐古遺跡の発掘があり、弥生時代の稲作は揺るぎないものになった。今では縄文後期にまで遡ると言われ始めている。アマチュアでなければ考古学者として、高名な地位を築けたが、当時の先生方とはおりあいが悪く、学者の道に入れなかったのでその業績は雑誌等で発表されたのみである。

 

「愛する魂よ、不滅の名など獲ようとは努めるな 人のなし得る業の深奥を究めよ」六爾が大好きだった言葉である。自分の業績が認められなくても焦ってはいけないと言う自戒の言葉だったのだろうか。

生涯アマチュアでも、その情熱が多くの弟子に引き継がれ、平成の御代でもう一度見直されている一考古文学者の生涯は、これからも多くの人を魅了して止まない。